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2017年1月22日 (日)

西郷は詩人だったから(あの偉業が)できたのだ

ーー以下「宮崎正弘ブログ、書評」より抜粋編集qazx

平泉澄『首丘の人 大西郷』(錦正社)

「死に臨んで故郷を忘れず、元の丘の方へ首を向けて死ぬのが孤のならわしである」

西郷は延岡に敗れて可愛岳を越え、山川を超え、けものみちを歩き、とうとう城山へ帰り着く。鹿児島は故郷、死ぬ場所は決まっていた。

「晋どん(別府晋介)、このあたりでよか」と言って介錯される前に、西郷ははるかの皇居を遙拝した。

ーー

西郷隆盛は熱狂的愛国の精神で真心をこめて維新に邁進した。

平泉氏は水戸学の尊皇思想が維新回転の基礎的思想になったとしている。

その水戸学の源流は古事記と日本書紀にあり、山鹿素行、北畠親房、楠木正成、菅原道真そして義経が英雄として語られる。

越前からでて攘夷派の世論を席巻した天才・橋本左内は開国維新を説き、幕府と鋭角的に対立した。

「ひろく豪傑俊才を集め、皇国日本本来の姿に復して、天皇の御旗の下に、三千万の国民一致団結し、港を開いて万国と交わり、採長補短、慎重に、同時に急速に、欧米の学問文化を採用し、世界に雄飛すべし」

この橋本景岳(左内)の計画は、井伊大老の登場により瓦解した。

橋本左内の思想的源流は藤田東胡などの水戸学であり、西郷もまたその藤田から学ぶことが多かった。

それゆえ西郷は、もっぱら武士道、道徳、尊皇攘夷を語った。こんな西郷にあっては諜報、陰謀、陽動などの軍略は不向きであろう。

西郷の死後、庄内藩士がまとめた『大西郷遺訓』には、謀略優先の孫子と無縁の道義の世界が拡がっている。

平泉氏は橋本左内を吉田松陰より上位に置いたかに見える。だが、2人は安政の大獄の犠牲になって、はやくに世を去った。しかし尊王思想は残った。

西郷はこの安政の大獄を逃れようと僧月照とともに海に飛び込むが一人蘇生する。島津藩は、藩をあげて西郷を匿い、菊池源吾に名を換えた西郷を、奄美大島に逃がす。

一人生き延びたことに天命を感じた西郷の胸裏に去来していたのは尊王へのさらなる確信である。

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西郷に対比される大久保利通は冷血な打算をひめた実行者である。西郷は先駆者で力まかせの辣腕怪腕をふるったが、維新後の国づくりの先見力、構想力があったのはむしろ大久保であった。

ーー

戊辰戦争のおり、薩長軍の兵力は幕府軍の十分の一でしかなかった。ところが相手を烏合の衆とみた薩長軍には騎虎の勢いがあった。

何よりも将軍慶喜は朝敵に成ることを恐れる人だったのだ。

「承久の乱」でも、北条泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。

義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。都から兵だけを送ってくるのであれば力の限り戦え」と命じたと言う(『増鏡』)。

将軍慶喜は「天皇には弓は引けぬ」として、一目散に逃げ出した。会津は京都守護職として最悪の貧乏くじを引いた。

これでは幕府軍も戦えない。

一方の薩長は、薩英戦争、馬関戦争をくぐり抜け、自らが血路を切り拓いたという実戦の経験からも火力に富み、それを背景に士気が高い。

ーー

ここで忘れてはならないのが列強の介入である。

幕府にはフランスがテコ入れを申し入れ、薩長軍には英国が絡んだ。

(アーネスト)サトウが、『なんぞ英国へご相談なされたき儀も御座候はば、承知いたし候』と持ちかけてきた。

西郷は之に答えて、『日本政体変革の処は、いずれ共、我々尽力致す可き筋にて、外国の人に対して面皮もなき訳と返答いたし置き候』」と、英国の介入を決然と峻拒した。

インドもシナも、いや朝鮮も、ジャワも、アジアのことごとくは外国が介入し、国内が分断され、あげくは西洋列強の植民地となった。

日本は西郷らの英断によって列強の介入を潔しとせず、自立独立の道を尊んだのだった。
 
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ところが後年、西南戦争で熊本鎮台を囲んだ西郷軍は、戊辰戦争とりわけ鳥羽・伏見の戦役を思い出し、官軍の「十倍の兵力はものの数にあらず、吹き飛ばしてみせようぞ」と怪気炎をあげた桐野利秋の、戦術論ともいえない、ひたすらの決戦論に傾いた。

ここには戦争の戦術、戦略が乏しく、また兵站の配慮がなされていない。おどろくほど稚拙である。

そこには科学的合理性がない。論理性より情念が先行している。

西郷にはもとより軍略なく、したがって薩軍には軍議らしい軍議もなく、熊本を無視して長崎か小倉を先に陥落させれば、西郷軍の勢いに押されて各地の武士が立ち上がるだろうと期待した。

適切な判断の軍略は桐野、篠原国幹らによってあっさりと退けられた。

ーー

反乱軍には西郷を慕って九州各地から不平武士らが大挙して駆けつけた。

しかし西郷は本陣にあっても殆ど発言せず、側近に判断を委ねた。

まさに「天命に従う」心境なのだ。

反乱側には、勝つための戦略はなく士気と抜刀隊に依拠して勝てるとする精神論が支配していた。

その精神論は、尊王思想というより西郷の「日本精神、武士道、正義の思想」に殉じようというのだ。

西郷隆盛は最後の決戦地となる延岡まで兵士の前に現れることはなかった。

西郷は、親衛隊に徹底的に身辺を守られ、戦闘現場に現れたのは延岡の和田越峠と、自決の城山だけだった。

奇怪とも言える。
 
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ふりかえれば西郷は、戊辰の役で、にわかに官軍となった薩長軍を統率する最高司令官となっている。

しかし戦闘の戦術は部下が裁定していたのだった。

江戸無血開城のあと、鹿児島を行き来して、越後が苦戦と聞けば駆けつけ、函館が苦戦と聞いてまたも鹿児島から新兵を率いて駆けつけた。

西郷が、戊辰を最後まで見届けたとはいえ、具体的な戦闘の記録はない。

西郷はあくまでも官軍の精神的支柱だった。

ーー

軍神として慕われても、西郷が、実際の戦闘を指揮していたわけではなかったのだ。

江戸の上野寛永寺に籠もった旗本の残党や幕臣らとの戦闘は大村益次郎に任せた。

薩長は時の勢いを加えて江戸へ攻め込む算段をととのえて、すでに甲府は落としている。

この段階で幕府は密使を立てて山岡鉄舟を駿河に陣取る西郷隆盛のもとへ派遣した。

西郷は山岡の提案をこの時点で呑んだのである。

この段取りのあとに、ようやく幕府の正式代表として勝海舟が登場する。

西郷は相手の話を聞き入り、条件をその場で呑み、約束したことを違えなかった。

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勝海舟とて、なんの手も打っていないわけではなく談判決裂のおり、江戸を焦土として、決戦に臨む覚悟と兵力の構えがあった。

新門辰五郎ら火消し仲間は、その段取りさえ済ませ、西郷・勝会談の結果を待った。

危機に直面したときにすこしも慌てず、事態の収拾に悠然として対峙できる人徳は特筆すべきことだ。

我が師・林房雄は、「西郷は詩人だったから(あの偉業が)できたのだ」と常に言っていた。

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平泉博士も、この立場である。

西郷は、「天成の詩人であって、その趣向、その修辞の美しいばかりでなく、本人の人柄と経歴とが詩であり、そこにいわゆる風雅の墨客には決して見られない天来の風韻に接する感じ」があった。

明治維新の三傑とは西郷、大久保、木戸を言うが、西郷を育てたのは英邁な藩主・島津齋彬であり、大久保が活躍の場をえたのは西郷が三年の島流しの間に島津久光の信任を得たからである。

木戸孝允の突出は毛利藩内の内部闘争が激しく人材が払底し、久坂玄瑞も、高杉晋作の斃れ、残るは山県有朋、伊藤博文ら若輩たち、したがって藩の外交を一手に引き受けた。

大久保を背後で支えたのは岩倉という陰謀たくましき公家であり、また小松帯刀の支援が強靭な支えとなった。

西郷の周りから詩が生まれたが、大久保と木戸の合理主義の周囲に詩はなかった。

後者ふたりが残したのは名文の漢詩である。
 
ーー

西郷は「道義国家の建設」という漠然として茫洋たる目標の下に行動した。

が、大久保と木戸には、新国家はいかなる体制で運営するべきかという構想があった。

西郷は維新の達成に貢献したが、新国家建設に対しては大久保と木戸が熟慮しており、西郷にはこれという具体的政策はない。

しかし廃藩置県という荒治療をやりとげるには、西郷が必要だった。

ーー

これが明治六年の政変の伏線である。

なぜ西郷と大久保の親密な風月はすさまじい風とともに去り、ふたりは対立するようになったのか。

しかも西郷は政治的野心なく、主唱した「征韓論」が破れるとさっと故郷へ帰った。

木戸は病気を理由に、征韓論騒ぎから日和った。

大久保から見れば遣欧使節団の帰国までの間に、あたらしい政策決定をしないという取り決めがあったにも拘わらず西郷はさっさと、しかも次々と新政策を打ちだして実行に移していた。

約束が反故とされたことに大久保は立腹したという解釈がまかり通った。

文明開化を急ぎ、伝統を台無しにすることに耐えられないとして西郷は鹿児島へ憤怒とともに帰ったとされた。

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ところが、平泉博士は次の分析をされる。

明治六年十月十五日の閣議において、一度は征韓論の西郷の主張が通った。

散会後、舞台裏で、岩倉を中心に陰謀が進んだが、西郷はまったく動こうとしなかった。

ふたりの対決の原因の一つは西郷の天皇への直訴を恐れたからだ、と。

「宮中に対する態度の相違である。西郷が明治天皇の厚き御信任を戴いていた事は、西郷の病気を御憂慮遊ばされ、侍医およびドイツ人医師を御差遣になり、診察せしめ給うた一事によっても明らかである」

「而るに西郷は、朝鮮遣使問題について、太政大臣を差し置いて、直接天皇の上奏し、親しく天裁を仰ぐことは畏れ多い事、非礼の義なりとして、希望もしなければ考慮もしなかった」

西郷は、「これは天命如何とする能わざるものと観念したのであった」。

岩倉は、「その西郷の無私純忠の精神を理解せず、西郷は直接上奏、すなわち直訴するかも知れないとして恐れた」。

この物証は、十月二十に日に岩倉が大久保に充てた書状で明らかとなっている。

ーー

西郷は詩人だった。

詩は天地(あまつち)を揺らし
人々を全力で走らせ
基幹から国を動かす

平泉博士は最後にもう一度このことを強調して曰く。

「詩を作った人は、明治の功臣に数多くいるが、西郷のは文字を弄び平仄を合わせた程度のものではなく、生命が躍動していて、人間そのものが詩であるように感じられる」

「詩もよいが書簡も面白い。英傑の磊々落々たる気風が書簡に流露しているのは、前には豊臣秀吉、後には西郷、双璧と言って良い」

秀吉はのびのびとした和歌の秀作を残しているので詩人だったかも知れないが、ときに冷血な謀略をしかけ、戦闘には冷酷に対応し、同時に人たらしであり空前の陰謀家だった。

西郷とは気風が異なる。

ーー

本書は評者に大きな感動をあたえたが、読み終えてまだその余韻が胸裡に去来している。

幕末維新を語った歴史評論、歴史書のたぐいは数知れずある。本書は西郷の熱血と愛国が支配しており、西郷論として、間違いなく名作として残るだろう。

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